凪とEMPiREと壁紙と艶消しスプレーのブログ

だだ何か書きたくなったら書く。中毒にも色々あるんだろうけど、自問自答中毒はたちが悪いよな、いや体に精神に悪い。見えないものを見たい好奇心が空想、想像を答えがあるような幻想。減速しないまま夜が明け繰り返しで諸行無常の響きあり?無し。待てど暮らせど予想変化、様相返還、予想変換が浮かばない。浮かばれない気持ちはどこに沈む。十字に割かれるように体は痛く、足を引きずり、顔も引きつり、私は過去を引きづって綴ってる。

精神医学の歴史と考証

最近、精神医学の歴史のYouTube解説を見ました。

自分が思っているカウンセラーやカウンセリングイメージが1900年代のそれと気づけた。

良く海外ドラマで肖像画の掛かっていて暖炉があり、壁一面が本棚。そして猫足の椅子に掛ける心理博士もしくはカウンセラーが傾聴する部屋みたいなイメージ。

 

私は医者が嫌いでさらに精神科や心療内科も歴史が浅くなんだか信用できないみたいに感じていたけど、私の考えは古い。フロイトユングで止まっているんだと思えた。

 

1900年代の精神医学の父であるフロイトは老人の認知症精神疾患とも思っていなかったという発言もある。真意はわからないけども、時代的に70歳を超えたら治療対象としなかっただけかもしれない。

 

現代は科学の発展で医療技術が上がり寿命も延びたこともある。認知症や終末期ケア・緩和ケアの一旦は精神科医学の分野になっている。

 

1900年代では1対1のカウンセリングでの濃密な対話で回復する人も大勢いた。手法としてあっていたかもしれない。患者と医者の信頼関係あってこその治療だろうし、弊害として投影や同一視を医者は警戒することになるだろうけど、それは情報というものが構造主義の中では権威であり、密室で秘密裏に行われる研究みたいな側面も多くあったのかもしれないなんて感じる。ネット時代とはいささか違いを感じる。

 

物事は表裏がつきものだろう。

 

当時だと優生学もあっただろうし治す側が隔離をする側でもあったと思う。マッド精神科医とかマッド解剖学者がうじゃうじゃで、非常識、非道徳、悪趣味のパレードがあったとも思える。

 

グリムの残酷物語・・・

話が逸れた

 

目を現代に向けると、心療内科とかに行ったことない人にはわからないかもしれないけど、「診察5分/月二回・薬物療法セット」が提供されます。

すごく思い詰めてやっとの思いで、苦々しくも自分を受け入れて、すがる思いで扉を開く心療内科の診察はあっさり味で天下一品のラーメンなら頼まないだろう。

 

こってりを所望!!出てこない

 

2022年に心療内科に行くとだいたいそのような感じになります。

何故なら今は個人の時代である。名前がない時代。

ポスト構造主義な時代であるからして、精神医学は脳科学に準拠しながら手探りだったりするからプラグマティズムになる。

ケースバイケース、多種多様を念頭に薬で抑えれる部分を探る。

 

社会復帰プログラムなどの提案や手帳の申請だったり検査紹介などの福祉とタッグでトータルケアをするチーム制といった感じなので、診察時間も短時間に他の福祉サービス者からフィードバックなどで治療者を見ているのだと思う。

 

実践主義(プラグマティズム)「行為やその結果に基づいて判断」する際に、「実際に役に立つか、意味があるかどうか」という視点。大事なことは、探求や実践といった行動を重きにおき「行動結果で都度検証して修正を加え判断して進む姿勢」

 

その話の中でもあったんだけど、AIを作るのにニューラルネットワークがいる(脳内神経細胞のネットワーク構造をもした数学モデル)そうです。

 

それは脳内ネットワークは入力⇒出力みたいな構造は人間はしていなくて、ある部分が弱いなら違う部分が補ったりする入力⇒中層⇒出力みたいなことを脳はしているそうです。

そのことから言葉で患者に傾聴や問いかけばかりの治療、カウンセリングでなく訓練や体験で補う脳機能回復を促すのが現代の精神医学の治療なんだな~と理解でき私の不安が一つ無くなり成仏した。

 

誰か行く機会があれば診察が拍子抜けでも、現代はそう!とアップデートしていくと良いと思う今日この頃です。